ぶらり西院さい発見!

西院駅から出かけよう

第2回 /
どこまで知ってる?西院の歴史Part1

「西院」の成り立ち

商業ビルが建ち、にぎわう西院ですが、昔はどのような場所だったのでしょうか。少し振り返ってみましょう。

古くは「やましろ」(山代、山背)と呼ばれる山城盆地内の「葛野(かどの)」という地域であり、794年、桓武天皇が長岡京より平安京へと遷都を行い、葛野郡は平安京の一部となりました。桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と続いた後に即位した桓武天皇第三皇子・淳和(じゅんな)天皇は、仁明天皇に譲位した後に現在の西院付近に離宮である「淳和院(じゅんないん)」を構えます。

この淳和院の所在地が皇居から見て西に位置すること、さらに佐比大路(さいおおじ)[現:佐井通(さいどおり)]にも近かったことから「西院(さいいん、さい)」と呼ばれて、付近一帯の地名となったとされています。以来、西院の名となり、大正時代まで葛野郡西院村という名称でした。

西院にはあの世がある?

嵐電西院駅から北西すぐの場所に建つ、日照山高山寺(こうさんじ)は淳和院の広大な敷地の南東に位置していたとされ、門の前には「淳和院跡」の石碑が建っています。

本尊は、室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏が近江・堅田からこの地に移したと伝わる由緒ある地蔵像。室町時代には「京都の六地蔵」の一つとして名高く、安産・子授けのご利益がある子安地蔵尊として信仰され、銀閣寺を建てた室町幕府八代将軍・足利義政の妻・日野富子もここで祈願し、男児を産んだという言い伝えがあります。

高山寺は、かつては「高西寺(こうさいじ)」という名前で、今より南東の四条御前を下がった辺りの高台の上にあったそうです。豊臣秀吉が京都防衛のために御土居造る際に、その高台が御土居予定地にあたるため移転をせねばならず、現在の地に越してきました。本堂に向かって左側に立つ大きな地蔵像は、時代が下ってから御土居を崩した際に中からたくさんでてきた石仏を供養するため、明治期に金戒光明寺(通称:くろ谷さん)から移設されたものだそう。平安時代、この辺りには川が流れており、河原は葬送の地とされていたようです。御土居の中から出てきた石仏は、おそらくその供養のためでしょう。

そして、西院(さい)の地名と、葬送の地であること、親に先立って亡くなった子どもたちがあの世で石の塔を積む『賽の河原地蔵和讃』にでてくる「賽(さい)」が同じ発音であることなどから、一帯を「さいの河原」と称すようになったと、一説ではいわれています。門の右手に立つ石柱と、本堂正面に掲げられた額にある「くろだにをはやたちいでてこうさんじ さいのかはらをみまもるみほとけ」という御詠歌にも、さいの河原の文言が記されてています。今では河原は姿を消しましたが、子安地蔵尊とさいの河原の地蔵像は、亡くなった子、生まれてくる子、すべての子どもたちを見守り続けています。

ちなみに、願掛けをして生まれた足利義政の嫡男と足利義政の弟・義視との間では後に後継者争いが起こり、「応仁の乱」の発端の一つとなっていきます。

高山寺
拝観時間(境内のみ開放):7:00〜17:00頃
お問い合わせ:075-311-1848
アクセス:嵐電嵐山本線「西院」駅より徒歩約2分

西院にお城があった?

応仁の乱の後、世は戦国時代へと突入していきます。その頃、西院にお城があったことをご存知でしょうか。

権大納言の山科言継(やましなときつぐ)によって書かれた戦国時代の日記「言継卿記(ときつぐきょうき)」には、「西院小泉城」をめぐる戦いが記されています。また、織田信長が上杉謙信に送ったとされる、国宝「上杉本洛中洛外図屏風」では、豪華絢爛な屏風の左隻に「さいのしろ」と書かれた周囲に塀をめぐらせた館の姿を見ることができます。

小泉城は現在の西大路四条交差点の西側付近に位置し、16 世紀中頃に築かれ、小泉氏の後さまざまな城主を経て、最終的には城主自ら火をかけて落城したようです。18世紀初頭の「山城名勝志」には、小泉城址として堀の一部が残っている様子が記されています。

 現在では遺構は残っておらず、残念ながらお城の名残を見ることはできません。小泉氏や小泉城について残されていることは多くはありませんが、いつか、新たな記録が発見されてより詳細がわかるかもしれませんね。

「言継卿記」(国立国会図書館デジタルコレクション)
「上杉本洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館・市立米沢図書館文化財総合データベース)

ちょこっと嵐電さい遊記

トンネルにワシがいる?

阪急京都線の西院、大宮、烏丸、河原町の各駅は四条通の真下に位置する地下駅です。かつては阪急京都線の東の終点は大宮駅で、実は「阪急大宮駅と大宮・西院間の地下線路」は、東京の銀座線に続いて全国で2番目、関西初の地下線として1931年(昭和6年)3月31日に開業した歴史あるもので、土木学会選奨土木遺産に指定されています。

トンネルの出入り口上には「天人併其功」の文字が表記された額とワシの像が掲げられています。これはこの地下線開業時に当時の太田光凞社長が揮毫したもので、天と人が力を合わせて成し遂げた工事であると、京都近代化の偉業として称えています。今でもこのワシは毎日電車を見守っているのです。

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