ひと駅ごとの小さな旅

宇多野駅

「笑顔の街」気が軽くなる場所

宇多野駅

名刺を忘れてしまった。

そのことに気づいたのは、四条大宮駅に着いたときだった。駐輪場に自転車を止めて、かばんをさぐる。いつも名刺入れにICOCAを入れているのだけど、その名刺入れごと持ってきていなかった。
名刺入れは、前日に着たコートのポケットの中に入っている。ああ、季節が巡っているなと思った。寒くなってくると、こういう類のミスが頻発する。

訪れるお店の方に挨拶をするのに必要なので、家に取りに帰ろうかと迷ったが、そうするとかなり時間がかかってしまう。迷った末に、そのまま行くことにした。とは言えなんだか心細い。名刺は社会人としての名札のような気がするから、それを持たない自分がちゃんとした社会人に見えるか心配だ。

久しぶりに買う切符は小さくて、なくしてしまいそうだ。混雑している嵐電に乗り込むと、目の前の窓に自分の顔が映った。ポケットに入れた切符をなくさないよういじっている自分は、いつもより少し子供じみて見えた。

宇多野駅

宇多野駅

電車の中には大勢の人が乗っていたのに、宇多野駅に降り立ったのはわたしだけだった。
駅は無人で、静かに緑に囲まれている。
ホームから降りても、道には人もいないし、民家以外に建物もお店もない。ただ、ぽつんと自動販売機だけが立っている。

まずはどちらに向かえばいいのか、何か手がかりとなるような看板を探したが見当たらない。坂は、駅から見て左から右へとゆるやかにくだっている。なんとなく坂を下りながら、最初に行こうと思っていた福王子神社の場所をスマートフォンで調べる。すると、まったく逆方向に向かっていたことがわかり、慌ててUターンした。

坂を上がる途中に、教会の十字架が見えた。

宇多野駅

福王子神社

坂の上へたどり着くと、車が多く行き交う大きな道路に出た。スポーツジムやファミリーレストランが建っている中をずっと歩いていくと、交差点に突き当たる。全部で6つの道に分かれている六叉路で、そのうちのひとつの大きな角に、福王子神社はあった。

この神社は、光孝天皇の女御である班子皇后が祀られているという。班子皇后は、宇多天皇の他にも多くの皇子皇女をお産みになられたらしく、それで「福王子」という名前がつけられたという説もあるそうだ。「福王子」、めでたい名前だなと思う。わたしは、つやつやとした玉のような赤子を想像する。

宇多野駅

拝殿には「福王子神社由来」という建て額があり、よくよく読んでみるとこんな一文が見えた。

「御祭神班子皇后は至極お気軽なお気持ちのお方でその御神徳をお慕ひ申上げ…(中略)…産土の大神として厚く尊崇せられて居ます。」

お気軽なお気持ちのお方? それってどういう意味なんだろう、と考えながら境内を歩く。天皇の女御であり母親でもある方に、「お気軽」という言葉が少し意外だった。高い身分にも関わらず気さくな方だった、ということかしら。

掛けられている絵馬には、「娘に良い花婿が見つかりますように」とか「卓球の試合で勝てますように」とか、さまざまな種類の願いごとが書かれている。それらをじっくり見ていると、班子皇后がそれぞれのお願い事に、にこにこと優しく頷いていらっしゃるような気がした。「お気軽なお気持ち」の神様だなんて、なんだか素敵だなと思う。

宇多野駅

エバーコーヒー

昼時でお腹が空いていたので、神社を出てまずごはんを食べられる場所を探した。
すると神社の右隣に、看板を出している喫茶店があった。少し奥へ入ったところに、コーヒーポッドのロゴが描かれたのれんがかかっている。

入ってみると、明るい笑顔の若い女性と、優しそうな年配の男性が出迎えてくれた。席につきホットサンドセットを注文すると、女性がそれを男性にはきはきと伝え、男性が作り始める。「手際が良くなりましたね」とお客さんが言って、女性が「はい、本当に」と言い、男性が照れ臭そうに笑った。
できあがったコーヒーとホットサンドを、男性がゆっくりとした仕草で丁寧に置いてくれた。

宇多野駅

ホットサンドにはハムとチーズとトマトが、付け合せには缶詰の桃が添えられている。焼きたてのサンドイッチに、冷たい黄桃がおいしい。

話を聞いてみると、ここは就労支援の場所のようだった。「ひこばえ」という就労支援事業所が行っているカフェで、障害を持った方がサポートを受けながら働いているのだという。
「私自身も障害者なんですよ」
と、男性が朗らかに言った。ここはお店の人もお客さんも、みんな優しそうな表情をしている。

「ごちそうさまです、おいしかったです」
お店を出るときにそう言うと、女性が「わあ、よかった!」と心から嬉しそうな笑顔になった。

宇多野駅

船屋秋月

お店を出て再び交差点に立つと、福王子神社のちょうど向かいの角に、和菓子屋さんが見えた。今日のおみやげはここで買おうと思い、「栗大福はあるかなあ」と思いながら横断歩道を渡る。わたしは栗大福が大好物なのだ。

扉を開けると女性が出迎えてくださった。ショーウィンドウには季節の生菓子や、箱に詰められたお菓子が並んでいて、どれにしようか悩む。栗餅があったので、嬉々としてそれをいただく。他に、「亥の子餅」「錦秋」、それから銘菓であるという「わらしべ長者」を買った。

宇多野駅

いつもお店を出るときに、このお店のことを記事に書いてもいいですかという質問をする。今回は名刺を持っていなかったのでいつもよりどきどきしたが、女性は優しく応対してくださり、「社長に聞くので、少し待ってくださいね」とおっしゃって奥へと入っていった。事情をお話する彼女に、「社長」と呼ばれた男性が「いいですよー」と実にのどかなお返事をくださるのが聞こえた。

奥から戻ってきた女性が、うふふと笑う。きっとお菓子も寛容な味がするのだろうなと思いながら、「ありがとうございます」とわたしも笑った。

宇多野駅

ママワーク

船屋秋月を出ると、向かい側の道に小さな看板が見えた。

よく見えないが、なんだかかわいい絵が描かれているような気がする。甘党なので「またお菓子屋さんかな?」と思いながら、いそいそと道を渡って近づいてみた。するとそこには「ママワーク」というお店の名前が書かれてあり、わたしは思わず「ママワークさんだ!」と小さく叫んだ。

ママワークさんは、息子が通っている保育園の夏祭りに、いつも出店してくださっているお店だ。わたしはそこで、息子用のパンツを購入したことがある。どれもかわいい柄で、やわらかい生地で、息子もわたしもとても気に入っている。「お店はここにあったんだ」と感動してしまい、どきどきしながら扉を開けた。

宇多野駅

お店の中には子供と女性用のパジャマ・下着がずらりと並んでいた。子供のパンツひとつをとっても、車や水玉やロボットなど、いろんな柄があって選ぶのが楽しい。次男に新しいのを買ってやろうと、夢中になって選んでいると、お店の方に声をかけられた。
「こちらにある下着とパジャマは、うちで作っているんですよ」
わたしが保育園の保護者で、これまでに何枚かパンツを買ったことがあるのだと言うと、彼女はとても驚いて、「来ていただけて嬉しいです」と笑った。

ママワークさんの商品は、嵯峨野にある工房でひとつひとつ縫製されているらしい。もともとは、女性のご両親がふたりで始められたお店らしく、今もご家族で経営されているとのことだった。
「もう40年近くやっていますかねえ」
うちの保育園とも数十年前からのお付き合いだとおっしゃる。二代、三代に渡る根強いファンもいるそうで、本当にすごいことだなと思う。

次男のために二枚パンツを買った。車とロボットの柄で、とてもかわいい。

あまりにわたしが嬉しそうにしていたからか、お土産に小さな紙袋を手渡してくださった。「これは?」と尋ねると「パンツです、よかったら使ってください」とおっしゃる。恐縮しながらも、ありがたくいただいた。
開けてみると、ピンク地に白の水玉の女性用パンツが入っていた。「かわいい!」と思わず声が出る。いつも子供のためにしか買ったことがなかったから、自分用のものをいただけたのがとても嬉しくて、「こんなかわいいパンツ、履いたことがない」と袋を覗き込みながら思った。

宇多野駅

再び、宇多野駅

宇多野駅に戻ると、先客は男性ひとりだけで、やっぱり静かなままだった。
ベンチに座って、上着のポケットに手をつっこむ。ここからは切符は買わないで、降りたところでお金を払う仕組みだ。

今日は名刺を持っていなかったけれど、いろいろな人と楽しく話ができたなと思う。
名刺がないと怪しい者に思われるのではないかと思ったが、ひとりのお客さんとしてお店に入り、顔を見て話をしたことで、みんなわたしを信用してくれた。そうやって名札なしで関係性を築けたことが、とても嬉しかった。
もう忘れないようにしようと反省しながらも、何者かもわからないわたしを受け入れてくれたこの街のことが、好きになったのも事実だ。

手元のビニル袋から「わらしべ長者」と書かれた白い小さな紙袋を取り出し、中身を食べる。きなこをまぶしたお餅の中から、つぶあんがのぞいた。
てっきりわらび餅だと思っていたので、そのあんこがなんだか嬉しく、「いいですよー」というのどかな声がもう一度聞こえてきそうで、わたしは思わず笑った。

「お気軽なお気持ちの方」
そう表された班子皇后のことを思い出す。彼女はどんな方だったんだろう。きっといつも笑顔で、気さくで優しい方だったにちがいない。

土門 蘭(どもん らん)

1985年広島生。小説家。京都在住。ウェブ制作会社でライター・ディレクターとして勤務後、2017年、出版業・執筆業を行う合同会社文鳥社を設立。
インタビュー記事のライティングやコピーライティングなど行う傍ら、小説・短歌等の文芸作品を執筆する。
著書に『100年後あなたもわたしもいない日に』(共著・文鳥社※刊)、
『経営者の孤独。』(ポプラ社刊)。
近日、長編小説『戦争と五人の女』(文鳥社※刊)発刊予定。

「※社は旧漢字」

Information

福王子神社

福王子神社

住所:
〒616-8208 京都府京都市右京区宇多野福王子町58

TEL:075-463-0937

エバーコーヒー

エバーコーヒー

住所:
〒616-8208 京都市右京区宇多野福王子町54
営業時間:10:30〜16:30
定休日:土・日・祝日
ホームページ:https://shuroshienhikobae.jimdo.com/

TEL:080-2462-4511

船屋秋月

船屋秋月

住所:
〒616-8208 京都市右京区宇多野福王子町13-3
営業時間:9:00~18:00
定休日:年中無休
ホームページ:https://www.funaya.jp/

TEL:075-463-2624

ママワーク

ママワーク

住所:
〒616-8208 京都市右京区宇多野福王子町19-1
営業時間:10:00〜18:00
定休日:日曜・祝日
ホームページ:https://www.mamawork.info/

TEL:075-464-9077

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